京都は日本の歴史と文化の中心として、いつの時代も新たな文化を創り出してきました。
平安京遷都より前の絵画作品として、醍醐寺や上品蓮台寺に残る「絵因果経」があります。これは奈良時代の作品で、釈尊の伝記を絵画で表現しつつ、その下部に経文が写経体で書かれたものです。
また、彫刻では秦氏が建立した蜂岡寺(現在の広隆寺)にある半跏思惟姿の「弥勒菩薩像」2躰が残されています。
平安時代初期には、密教が空海によって本格的にもたらされたことにより、密教美術が盛んになりました。東寺に、空海が中国から持ち帰った「真言五祖図」が伝わっています。
また、密教の宇宙観を表現した両界曼荼羅(胎蔵界・金剛界)図では、日本に現存する最古の「弥勒菩薩像高雄曼荼羅」が神護寺に、「伝真言院曼荼羅」が東寺にそれぞれ所蔵されています。さらに、青蓮院には不動明王の坐像を描いた「不動明王二童子」(青不動)があります。
彫刻でも密教彫刻が創出されます。東寺にある「五大明王像」「五大菩薩像」「梵天像」「帝釈天像」は、曼荼羅を立体的に表現した配置になっています。
平安時代中期になると、大和絵が成立・発展します。大和絵は「唐絵」に対し、日本独自の絵画という意味合いがあります。藤原頼通は、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像の後壁に浄土の様子を、さらに扉に阿弥陀如来が来迎する様子を描かせていますが、この時期にはすでに成熟した大和絵が確立していたことを示しています。