前回の記事:京都の歴史と美術品② 平安時代末期~鎌倉時代
室町時代になると京都に幕府が設置され、そのもとで働く同朋衆によって収集された中国の水墨画が京都の画壇を刺激しました。その中から頭角を現したのが狩野正信と雪舟でした。
狩野正信は幕府御用絵師として用いられ、その一門である狩野派が京都の画壇において勢力を伸ばしました。同時に、朝廷の絵所として伝統を受け継ぐ土佐派も京都で有力な画派でしたが、これら2つの有力画派は姻戚関係を結びながら、それぞれ発展していきました。
一方、雪舟は中国で本場の水墨画を学んで帰国し、水墨画の最高峰として仰がれるようになりました。
雪舟晩年の作品天橋立図(京都国立博物館蔵)はその代表作です。
この時期の美術品を語るにあたって外せないのが、貴族や武士のみならず町衆をも巻き込んだ茶の湯の流行です。
千利休以前の喫茶の場では、絵画や漆器などの工芸品が多数並べられていました。そして、茶器や茶碗は茶の湯に欠かせないものとして発展していきました。
こうして、京都ではより広範な人々によって美術品が消費されるようになり、さまざまな技術をもった職人が育ちました。これらの職人たちはやがて応仁の乱の戦火を避けて地方に分散し、これが日本各地に名産の工芸品を産み出すきっかけとなりました。
また、戦国時代には織物職人によって西陣織が作られるようになりました。