京都の歴史と美術品② 平安時代末期~鎌倉時代

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平安時代末期から鎌倉時代にいたる時期には、肖像画である似絵が盛んに描かれるようになりました。
神護寺にはそれぞれの束帯姿を描いた「伝源頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能(みつよし)像」が伝えられています。また、栂尾の高山寺には「明恵上人像」があります。
高山寺はこのほか、この時期に動物を人間に見立ててコミカルに描いた絵巻物「鳥獣人物戯画」があることでも有名です。

他方、平安時代末から浄土信仰が盛んになり、来迎図が多く描かれるようになりました。
山の向こうから現れた阿弥陀如来を描く「山越阿弥陀図」が永観堂(禅林寺)に、臨終の者を往生させるために急いで来迎する阿弥陀如来と菩薩たちを描いた「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(別名「早来迎」)が知恩院に伝えられています。

彫刻においても浄土信仰の隆盛を反映し、阿弥陀如来像が盛んに造られることになります。そのような中で、従来の一木造を脱して、新たな寄木造の技法が採用されるようになっていきました。
平等院鳳凰堂の「阿弥陀如来坐像」は、定朝による作品で、寄木造の技法を最大限に駆使して制作されています。
定朝の制作様式は、「定朝様(じょうちょうよう)」として結実していきました。この様式を学んだ院覚は、法金剛院に残る「阿弥陀如来坐像」を制作しています。

その後、京都には定朝の後継者たちによる京仏師の工房(仏所)が生まれました。有名な仏所としては、覚助による七条仏所、長勢による三条仏所、院助による七条大宮仏所があります。
さらに、京仏師から別れて頭角を現したのが奈良の運慶と快慶です。京都にも彼らやその門下(慶派)が制作した作品が残されています。
随心院にある会計の「金剛薩埵坐像」や、運慶の後継者である湛慶・康円らによる蓮華王院(三十三間堂)の「千手観音坐像」は有名です。また、小さな阿弥陀如来が口からいくつも出ている「空也上人像」は運慶の四男・康勝によるものです。

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