京都の歴史と美術品⑤ 江戸時代中期~明治時代以降

前回の記事:京都の歴史と美術品④ 安土桃山時代~江戸時代初期

江戸時代中期になると京都の画壇において狩野派の影響力は徐々に低下し、町人文化の発展とともに多様な画派が誕生しました。まず、尾形光琳が40代になって絵師となり、俵屋宗達の流れをくみながら琳派と呼ばれる画派を形成しました。

18世紀に入ると文人画・写生画の諸派が誕生し、これらが今日の日本画の基盤となっていきます。
まず、中国絵画の影響を受けた池大雅・与謝蕪村が南画家と呼ばれる文人たちに影響を与えました。続いて、円山応挙は明快かつ分かりやすい写生画を描いて民衆の支持を得、円山派が形成されました。
また、蕪村に教えを受けた呉春はその居住地から四条派と呼ばれ、弟の松村景文ら優れた門下を輩出しました。写生を重視する円山派に対して、四条派は絵師の心情を描写することに重点を置いたことがその特色です。

さらに、伊藤若冲は鶏の絵を描くことで有名になり、現在御物になっている相国寺の「動植綵絵」を残しました。
また、曽我蕭白円山応挙に対抗する奇矯な画風で注目されました。このほか、原在中は写生画に土佐派の画風を加えた穏やかなタッチの画風を確立し、原派と呼ばれる流れを作りました。

明治時代になると殖産興業の観点から諸芸が奨励されるようになり、日本最初の美術学校・京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)が創立されました。
画学校では四条派の幸野楳嶺らが中心になり、竹内栖鳳上村松園ら多くの画家を育て、現在の京都画壇の基盤となりました。

以上のように、京都はその歴史のなかで、それぞれの時代の文化をリードしながら今日まで発展してきました。
そのようなエネルギーこそが今も人々を惹きつけてやまない京都の魅力の源泉なのかもしれません。

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