前回の記事:京都の歴史と美術品③ 室町時代~戦国時代
安土桃山時代になると、絵画においては宗教画よりも世俗的なテーマが描かれることが主流となりました。
狩野永徳は洛中洛外図屏風を描き、建仁寺の風神雷神図屏風や養源院の杉戸絵唐獅子図・麒麟図・白象図で知られる俵屋宗達もこの時代に活躍しました。
他方、狩野派に対抗したのが長谷川等伯で、その一派は長谷川派と呼ばれました。その作品として妙心寺龍泉庵の枯木猿猴図などがあります。
さらに、千利休によって茶の湯が大成されたことで、陶芸では「侘び茶」の精神に合致する楽茶碗の長次郎が現れました。
江戸時代初期にいたると、狩野派は狩野探幽ら江戸狩野と永徳の画風を引き継いだ京狩野の2つの流れに分かれます。
江戸狩野の実力を余すところなく現代に伝えているのが、二条城二の丸御殿にある障壁画です。制作にあたって江戸幕府が棟梁を命じたのは狩野探幽で、その一門による作品が二の丸御殿の内部を彩りました。
一方で京狩野の狩野山楽は、妙心寺の龍虎図・虎渓三笑図、大覚寺の紅白梅図・松鷹図などを描きました。さらにその弟子の狩野山雪は妙心寺天球院の方丈障壁画を残しています。
他方、戦国時代に堺に避難していた土佐派では、土佐光起が御所の絵所預に復帰したことで大和絵が再興されました。
工芸では、江戸時代初期に友禅染が発展します。また、京焼では野々村仁清によって色絵磁器が登場し、さらに奥田穎川が呉須赤絵や染付の磁器を制作したことで、清水焼として展開していきました。