屏風の買取について

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屏風の歴史

屏風は「風を屏(さえぎ)る」という意味があり、襖窓などから入る隙間風を避ける家具です。その歴史は古く、古代中国の周の時代には天子専用の調度品として使用されました。
漢代初期に書かれた正史史記にも「天子當屏而立」という記載があり、祭祀の際には王権の象徴としその背に立てられました。漢代には王侯貴族や豪族などの間で、木に漆を塗り絵や玉などを施した現在と同じ折り畳み式の屏風が使われはじめます。

日本に屏風が渡来したのは、日本書紀にある朱鳥元年(686年)に朝鮮の新羅の使者が天皇への献上品の記録が最初です。
現存する日本最古の屏風は正倉院に所蔵されている鳥毛立女屏風で、天平勝宝8年(756年)の東大寺献文帳にその名が記載されています。その後平安時代には貴族の館の寝殿造の間仕切りとして当時の絵巻物にも金屏風が描かれており、身近な調度品だったことが伺えます。
また11世紀に作られた東寺所蔵の日本最古の大和絵山水屏風で分かるように、屏風は実用品より装飾品といった意味合いが強かったようです。
室町時代に邸宅が書院造に変わると、その空間を視覚的に演出する調度品になりました。また日本の金屏風は日明貿易で重要な輸出品だったことが渡唐御荷物色々御要脚などの貿易記録で分かっています。

狩野派と屏風

私たちが博物館などで見る絢爛豪華な屏風絵は室町時代から400年に渡り日本画壇に君臨した狩野派の存在無しでは語れません。
初代狩野正信が御用絵師として八代室町将軍・足利義政に仕え邸宅の障壁画を担当すると、以後一族が時の権力者の御用絵師として内裏、城郭、寺院などの装飾を担いました。
特に安土城や大阪城の障壁画の製作した狩野永徳や、江戸城や二条城の障壁画の製作した狩野探幽など、一度はその名を耳にしているでしょう。彼らは大名の要望に応じ多くの屏風絵も描いています。

南蛮屏風

さて。戦国時代に狩野派の絵師が製作した屏風の中に『南蛮屏風』があります。
南蛮とは当時来日したポルトガル人のことで、『南蛮屏風』はその様子を描いています。貿易で訪れるポルトガル人は中国人や朝鮮人と体つきから服装、行動様式まで全く異なり、当時の日本人は興味津々でした。また彼らがもたらす珍しい文物や知識は瞬く間に世間に流行しました。

この『南蛮屏風』が描かれるきっかけとなる事件が、実は豊臣秀吉の朝鮮出兵です。
秀吉は朝鮮出兵の拠点として佐賀に名護屋城を築城し、その装飾に狩野派の絵師を派遣しました。その中に狩野内膳がいました。内善は狩野家の血縁ではなく、もともと武家の出身です。
しかし主家が織田信長に滅ぼされ、仕方が無く絵師に転向した経緯があります。彼は狩野松栄に師事し画才を発揮、僅か17才で狩野の姓を許され、その才能が秀吉の目に留まり御用絵師として大出世します。

内膳は名護屋城の装飾が終わると、当時海外貿易の拠点・長崎を視察に行きます。その時の体験が内膳を大いに刺激したのでしょう。
彼は『南蛮屏風』を製作し、南蛮船やカピタンと呼ばれるポルトガル人提督や乗組員、輸入品として持ち込また舶来品や異国の動物、宣教師、修道士、そしてそれを出迎える日本人の様子などを一点透視法という遠近法で詳細に描きました。実は一点透視法は西洋画の技法で、当時の狩野派の絵画では見られません。
内膳はおそらく当時長崎にあったキリスト教会で西洋画に触れたと考えられています。

この異国情緒あふれた『南蛮屏風』は好評を博し、『南蛮屏風』の模写が盛んに作られました。
現在国内外で確認されている『南蛮屏風』の数は90点ほど。これは同時代に流行し京都の市中を描いた『洛中洛外図』に次ぐ多さです。しかも『南蛮屏風』はキリスト教の宣教師が描かれていたため、鎖国後製作や所持が禁止され、多くは燃やされたことを考えると異例の多さです。実はその後も豪商などが絵師に依頼し密かに描かれていました。貿易で莫大な富をもたらす南蛮船は商人には「宝船」であり、縁起物だったのです。
『南蛮屏風』の旧所有者に廻船問屋が多いことからも、その人気が伺えます。

屏風は日本画を表現する素材の一つとしてその後も俵屋宗達、尾形光琳、長谷川等伯、円山応挙などが名作を残し、近代も横山大観や川合玉堂なども壮大な屏風絵を描いています。
屏風は全体を平面で魅せる絵画と違い、折って立てて鑑賞するため絵に独特の立体感と遠近感が生まれます。これは表現者の技量が問われます。
屏風絵に国宝や名作が多いのも、作者が最も実力を試すに相応しいキャンバスだったからです。

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