国吉康雄作品の買取について

藝品館では国吉康雄作品の買取査定を行っております。
国吉康雄の洋画、カゼイン画、リトグラフ等の絵画の売却や鑑定をお考えの際は、是非お気軽に当館へご相談ください。責任ある評価・査定を行い、現在の流通価格に沿った適切な買取価格をご提示いたします。

国吉康雄という人物

国吉康雄 (くによしやすお 1889-1953) は昭和期に活躍した岡山出身の洋画家です。

1889年に現在の岡山県岡山市で生まれた国吉康雄は、当時の移民の流行を背景として16歳でアメリカに渡ります。
西海岸で様々な労役に就きながら夜間学校に通い、そこで美術の才能を見出され、ロサンゼルス・スクール・オブ・アート・アンド・デザインで美術を学びました。1910年にニューヨークに移住し、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに入学、その後インディペンデント・スクール・オブ・アーツ、1916年には大きな影響を国吉に与えることになる、ヨーロッパの古典絵画をよく知る、ケネス・ヘイズ・ミラーが教鞭を取ったアート・スチューデンツ・リーグで4年間学びます。この間の1917年にはアメリカの前衛芸術集団ペンギンクラブにも参加しています。

1919年には一人目の妻・画家のキャサリン・シュミットと結婚し、キャサリンは画家としてのクニヨシの売り込みに奔走します。そして1922年に支援者の協力でニューヨークのダニエル画廊で初の個展を開催します。また同年、展示会組織「サロンズ・オブ・アメリカ」の委員長となります。
1929年には現代アメリカの画家としてニューヨーク近代美術館(MoMA)に選出されています。1925年と1928年から29年までに2度渡欧しており、旅や他の画家の助言もあって、国吉康雄独自の「ユニバーサル・ウーマン」と呼ばれる女性像が生み出されます。
1931年に病気の父を見舞うために一時帰国。東京、大阪、岡山で個展が開かれたものの、国吉の前衛的芸術は受け入れられず、絵は2枚売れたのみに終わっていますが、この国吉の帰国により、アメリカの芸術が日本に知られるようになります。アメリカに戻った後、キャサリンと離婚しています。

1933年、かつて学んだアート・スチューデンツ・リーグの教授に就任します。ここから戦後まで20年間もの間教鞭を取り続けます。1935年にはサラ・マゾと結婚、サラは国吉の作品や資料の管理を行い、国吉没後には何度も岡山に訪れるなど日米の橋渡しを行っています。 br1940年代は第二次世界大戦でアメリカでは敵性外国人となり、自宅軟禁されるなどの憂き目に会います。知己の画家の支援や、アメリカの日本排斥運動にに協力することで少しの自由を得ることが出来ましたが、鬱に悩まされ、戦時の虚無感からこの頃の代表作である 誰かが私のポスターを破った (東京国立近代美術館寄託)を制作、戦後には 飛び上がろうとする頭のない馬 (大原美術館蔵)、3年かけて制作された 祭りは終わった (岡山県立美術館蔵)などのメッセージ性の強い作品を発表します。
戦後は芸術家の権利を主張し守る運動家としても活動し、1947年にはアメリカ芸術組合の初代会長となります。1952年にはホイットニー美術館で「国吉康雄展」が開かれるなど、アメリカで最高の人気を博しました。
1953年、前年に改正された移民法にてアメリカ国籍を申請していた中、国籍手続きが完了する直前に没しています

国吉康雄の画風

国吉康雄は少年期よりアメリカに移住し、今までヨーロッパの芸術に支配されていたアメリカに独自の芸術を完成させようとし、前衛芸術を生み出し続けました。
最初期の画風はアカデミックなものではなく、土地固有の文化や流行から生まれるアメリカのフォークアートと呼ばれる労働者階級の絵画を描いています。労働移民として渡米したことが根幹にあるものと見られます。
ペンギンクラブに所属し、支援者が着くようになってからは、ヨーロッパの伝統的絵画から一歩踏み出した、ルノワールやセザンヌなどのモダニズムの画家たちの影響を受けて、多角化した視界から部分を取り出してみたり、鮮やかな色調を使用し感情表現を試み、またマティスのような荒々しい画面作りなどを行っています。この時期には ピクニック (福武コレクション蔵)のようにリチャード・E・ミラーの明るい色彩や技法を使用したものも見られます。

1920年代頃からはキュビズムのように描く対象を単純化したり、強調などを行うようになります。 鶏小屋 (福武コレクション蔵)では対象が画面を乱舞し、小屋などは鳥瞰図のように描かれています。西洋的な技法で東洋的な表現がされた絵画の数々は個展で絶賛されています。
渡欧した1929年頃からは、これまでモデルを使わず記憶を辿って作品制作するスタイルから、モデルを使うスタイルに変更しています。しかしモデルを前に描くのではなく、モデルをスケッチしてから半年ほど期間を開け、自分のイメージと混ざりあった頃に本格的に絵にしています。この描き方で1930年代には、普遍的な誰でもない女像「ユニバーサル・ウーマン」の絵画の数々を生み出しました。彼女たちは誰と特定できず、一様に憂いなどの深い感情を持つかのように描かれます。

1940年代は悪化する世界情勢からひどく鬱に悩み、 誰かが私のポスターを破った 少女よお前の命のために走れ (福武コレクション蔵)などのアンニュイでシュールな作風へと変化しました。また戦後には投棄物やを描いた 飛び上がろうとする頭のない馬 や、剣に貫かれる逆さまの馬が描かれる 祭りは終わった など見る側に覚悟を問うようなメッセージ性の高い絵を描いています。
またサーカスもよく題材にしており、大戦後の作で曲芸に失敗し、ブランコから落ちる団員を描く 安眠を妨げる夢 (福武コレクション蔵)や、最晩年の代表作である忌々しげなピエロが鮮やかに描かれた ミスターエース (福武コレクション蔵)などにサーカスへの眼差しが見られます。

現在、国吉康雄の作品は多くが福武コレクションとして収集され、岡山県立美術館などを通じて一般に公開されています。