狩野芳崖作品の買取について

藝品館では狩野芳崖作品の買取査定を行っております。
狩野芳崖の日本画・絵画掛軸等の売却や鑑定をお考えの際は、是非お気軽に当館へご相談ください。責任ある評価・査定を行い、現在の流通価格に沿った適切な買取価格をご提示いたします。

狩野芳崖「悲母観音」

狩野芳崖「悲母観音」(重要文化財/東京藝術大学)

狩野芳崖という人物

狩野芳崖 (かのうほうがい 1828-1888) は幕末・明治に活躍した日本画家です。
芳崖は長府印内(現・山口県 下関市)に生まれました。幼名幸太郎。父は長府藩御用絵師・狩野晴皐です。
藩校に通う傍ら幼い頃から父に画を学び、祖父・陽信と父・晴皐と同じように松隣と号しました。15歳の元服を境に延信と号し、19歳のときには江戸留学し狩野勝川院雅信に入門。22歳のときに勝海と号し、24歳のときには佐久間象山塾に入門。
その後芳崖は、江戸城本丸修築に際し大広間天井画を手掛けた他、忌宮神社や菅原神社の絵馬を描き、馬関海峡の測量に従事しました。
維新後は輸出用の陶器や漆器の下絵付に携わるなどして生活をつないだものの、画家として生計は立てられずその生活は困窮していたといいます。

そうした中で芳崖は、お雇い外国人教師・アーネスト・フェノロサとの出会いという転機を迎えます。
1884年第二回内国絵画共進会に出品した作品がフェノロサの目にとまり、以降フェノロサに雇われ、作品もその影響を受けたものを制作するようになります。
そして以降、内国絵画共進会やパリ日本美術縦覧会、鑑画会大会に出品。高く評価されるようになりました。また芳崖は、のちに東京芸術大学となる美術学校創設に貢献したことでも知られております。

狩野芳崖の作風

芳崖は粉本を通して狩野派を学び、さらには土佐派、写生を学び、雪舟に影響を受け、花鳥や人物・山水・故事・動植物など日本画のあらゆる画題を描きました。
端的でメリハリの利いた筆づかいで、人物や虎・龍・犬などを親しみ深い表情で描きました。

明治に入ると、よりスピード感のある筆致を用い、滑らかさと鋭さの対比を強く感じさせる作風へと展開。フェノロサに助言を受けた後の作品は、鋭さは身を潜め、抑えのきいた線と濃淡による表現、さらには極彩色を用いて力強く華のある表現を確立しました。芳崖の最晩年に描かれた作品には、画の速度が綿密にコントロールされ、非常に荘厳な印象があります。
幕末から明治に生きた画家が自らの作品をごく自然に近代化し、それまでにない新しい日本画を描いた様は今日においてもなお称賛され、晩年の代表作には飛龍戯児図不動明王図、絶筆悲母観音図などがあります。

狩野芳崖の作品は、東京国立博物館・東京芸術大学付属資料館・下関市立美術館・山口県立山口博物館・山口県立美術館・山種美術館・静岡県立美術館・ボストン美術館・フィラデルフィア美術館などに収蔵されております。