原三溪作品の買取について

藝品館では原三溪作品の買取査定を行っております。
原三溪の書画・掛軸・扁額等の売却や鑑定をお考えの際は、是非お気軽に当館へご相談ください。責任ある評価・査定を行い、現在の流通価格に沿った適切な買取価格をご提示いたします。

原三溪/原富太郎という人物

原三溪 (はらさんけい) は明治時代に横浜で活躍した実業家、原富太郎 (はらとみたろう 1840-1931)の号であり、茶人や美術収集家としても著名です。
富太郎は、美濃国(現在の岐阜県)の庄屋であった青木久衛の長男として生まれました。4歳には百人一首をそらんじ、漢学を学ぶなど幼少期から才能を発揮し明治18年(1885年)の17歳の頃には、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、政治や法律を学びました。

そして、明治25年(1892年)の23歳の頃に、豪商であった原善三郎の婿養子となったことが、一つの転機となりました。学問や芸術への道を志していた富太郎でしたが、この豪商の家で経営に携わらなければならなくなりました。厳しい修行時代を経て、生糸の貿易に着手したことで、三井物産や三菱商事などと並ぶ一大商社へとのし上がることになります。
財を成した後は、横浜へと移り住み、かねてより親しんでいた文化・芸術の発展、保護に寄与するようになります。広大な横浜の土地には三溪園と呼ばれる日本庭園を造成しました。また、収集した古美術品なども公開し、日本美術の海外流出を防ぐなど大きな役割を果たしました。
また、関東大震災に際して横浜市復興会長に就任して私財を投げうってでも横浜復興に尽力するなど教養と利他心に溢れた人物であったとされています。

原三溪と芸術

多くの美術品を収集し、文化を保護した原三溪の行動は、彼の美意識に基づいていました。
こうした美意識の背景には、急速な欧米化の中で失われる日本古来の精神を守ろうとする意識がありました。古美術品の収集は、流出を防いだだけでなく、美術史上において何が重要なのかを理解していたとされます。

原三溪は仏教関連の美術や書画、茶の湯道具、中国美術品など多くを収集し、また前田青邨や横山大観など多くの同時代の美術家もパトロンとして支援しました。、現在はコレクションの多くは日本の各美術館やコレクターなどの手に渡り所蔵されております。