渡辺崋山作品の買取について
藝品館では渡辺崋山作品の買取査定を行っております。
渡辺崋山の山水画や人物画、花鳥画などの日本画・絵画・書画・掛軸等の売却や鑑定をお考えの際は、是非お気軽に当館へご相談ください。責任ある評価・査定を行い、現在の流通価格に沿った適切な買取価格をご提示いたします。
渡辺崋山という人物
渡辺崋山 (わたなべかざん 1793-1841) は江戸時代後期の三河国田原藩(現・愛知県田原市)藩士家老であり蘭学者、そして文人画家です。
1793年、渡辺崋山は江戸の田原藩邸で生まれました。崋山の家は貧しい上に父は体が弱かったため薬代が嵩み、幼い弟と妹は奉公に出されてました。こういった家庭状況の中、崋山は勉学に励みつつ、親戚から教えを乞いながら得意の画を売って家計を助けています。
この少年時代のエピソードは太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、少年少女の道徳の手本になっていました。
後に崋山は南画家として活躍していた谷文晃に師事し、画家として名声をあげたことで苦しい生活から抜けられるようになりましたが、学問にも興味を持ち朱子学や農学といった当時の先端学問を修得していきます。
崋山は南画はもちろんのこと、肖像画の精度の高さは非常に有名でたくさんの依頼を受けていました。有名なエピソードとして、画家の友人であった滝沢琴嶺が亡くなった時、父の曲亭馬琴から滝沢の肖像画の依頼がありました。写真や映像がなかった当時、肖像画は死後、想像や親族を基にして描かれることが多く、当人を目の前にして描くことはほとんどありませんでした。
しかし、崋山はこの誘いに対して滝沢のまだ焼かれていない遺体を目にして触れながら肖像画を描きました。このように画に真っ直ぐ向かう姿勢と技量の高さから画家として幅広い人脈を形成していました。
また、蘭学を学んでいた崋山は西洋の新しい技術も積極的に取り入れ、独自の画風を確立させていきます。しかし、尚歯会が発行した書の挿絵などを担当し、開国論を世に普及させる活動に参加するなど、幕府が外国を排除する動きに批判したことを蛮社の獄にて咎められ投獄されたのち、謹慎生活を送ります。
その姿を見た弟子が画を売りながら崋山を助けようとしたところ、再び幕府から目を付けられて負い目を感じた崋山は自害してしまいました。1841年、崋山は48歳で一生を終えました。
渡辺崋山の作風
新しいことを積極的に取り入れようとしながらも、時代が追いついていなかったために不遇の日々を送ることとなった崋山ですが、その絵には現実を見つめるべく、細かな写実性があります。文人画として描かれていながらも西洋画の手法を取り入れた高い写実性で描かれた鷹見泉石像は国宝の指定を受けています。
学者として飢饉による食糧不足を救おうとするなど、庶民の生活を思う気持ちを持ち続けた家老でもあった崋山の視点により描かれた一掃百態図は、江戸の庶民の生活の一部を生き生きとしたタッチでユーモラスに描かれ、庶民が楽しく平和に生活することを望んでいた崋山の優しい一面がうかがえる一作となっています。