周作人作品の買取について
藝品館では周作人作品の買取査定を行っております。
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周作人という人物
周作人 (しゅうさくじん 1885-1967) は中国近代の散文家、翻訳家です。
浙江省紹興市生まれ。本名は周櫆寿、またの名を奎綬。字は星杓、啓明、啓孟、起孟。ペンネームは遐寿、仲蜜。号は知堂、約堂、独応など。
中国民俗学の開拓者であり、新文化運動の推進家でした。魯迅の弟で、生物学者の周建人の兄でもあります。
幼少の頃は私学で中国伝統の学問教育を受けた後、1901年に南京の江南水師学堂で英語などを学びます。
公費留学試験に合格し、1903年に兄の周樹人(魯迅)と共に日本に留学。本来は土木を学ぶはずでしたが、法政大学で日本語の学習の後に立教大学でギリシャ文学を学びます。日本留学期間中、日本に亡命していた革命家の章炳麟から中国古典を学んでいます。
1911年、帰国。郷里の中学で教鞭を取った後、1917年に北京大学学長の蔡元培の招きで北京大学文学院教授となり、ギリシャ文学や近代散文などの授業を担当。また教育の自由や女子の学問の推進などの運動を行いました。
1937年、盧溝橋事件が勃発すると、北京大学は本拠地を南京に移籍、殆どの教師がそれに従う中、周作人と一部の教師は北京に在留。
1939年、日本の支援で南京国民政府を設立した汪兆銘の招聘で北京大学図書館長、及び文学院院長に就任。その後は南京国民政府の下で教育を行いました。
1945年、第二次世界大戦終了後、蒋介石国民党政府により日本に協力した罪で逮捕。1947年、懲役10年が確定し上海で管理下に置かれるも1949年、中華人民共和国が樹立すると北京に戻され、周恩来の計らいでギリシャ文学の翻訳の業務が与えられました。
ただし、一切の政治的権利は剥奪され、1952年、北京人民文学出版社の翻訳者として月給200元の業務に就きギリシャ文学と日本文学の翻訳を数多く行いましたが、周作人の名で本の出版は許されませんでした。1966年、文革が始まると北京人民文学出版社は彼に給与を与えず、また「反漢」として紅衛兵の攻撃の対象ともなりました。
1967年、突然病を発症し逝去。享年82歳でした。
周作人の花鳥画
周作人は自ら墨を磨り、狼毛或いは狼と羊の混合毛の筆を使い、小楷書で原稿を書くことを好んでいました。
また書は彼の散文と同様に精緻で読みやすく、古拙で潤いに満ち、滋味があります。そのため毛筆で書かれた書簡なども多いです。
周作人は本人の意思に反し戦後「反漢」の汚名を着せられ不遇の内に没しましたが、当時の中国で周作人ほどギリシャや日本の文学に精通している人はいませんでした。
彼が残した膨大なギリシャ文学や日本文学の翻訳や、日本文学で培った散文は、日中関係が改善した現代中国で再評価され、彼の書も人気が高まっています。