奥村土牛作品の買取について

藝品館では奥村土牛作品の買取査定を行っております。
奥村土牛の日本画・絵画等の売却や鑑定をお考えの際は、是非お気軽に当館へご相談ください。責任ある評価・査定を行い、現在の流通価格に沿った適切な買取価格をご提示いたします。

奥村土牛という人物

奥村土牛 (おくむらとぎゅう 1889-1990) は昭和を代表する日本画家の重鎮です。
101歳の長寿を全うするまで終生筆を執り続けましたが、画家としては遅咲きで、彼の名が世に知れる世になったのは38歳の時に院展で初入選を果たしてからでした。

奥村土牛は1889年(明治22年)、東京で出版業を営む奥村金次郎の長男・義三として生まれました。
高等尋常小学校を卒業後、高等科に進むが病弱であったため中退。元々画家志望であった父の勧めもあり、1905年(明治38年)、16歳の時に日本画家の梶田半古が開いた半古塾に入塾。その時、塾の筆頭であった小林古径を生涯の師と仰ぎ、この時古径から教授された只管物をよく見て描く写生の大切さを終生守ることなりました。

以後、度々公募展に応募し入選を果たす傍ら、ポスターや絵葉書の絵を描く仕事に従事し、1910年(明治43年)に雑誌白樺に掲載されたセザンヌの作品に感銘を受け、これが土牛の画に終生影響を与えることになります。
1917年(大正6年)、木版スケッチ集スケッチそのをりをりを父の出版社から出版。その際父から与えられた寒山詩の一節土牛、石田を耕すから採った「土牛」を雅号とするようになります。その後も公募展に出品し入選を果たすものの大きな賞とは縁がなく、1926年(大正15年)、古径の勧めで日本画家の速水御舟の研究会に参加。
1927年(昭和2年)、第14回院展に胡瓜畑が初入選。1932年(昭和7年)、日本美術院同人に推挙された頃から線が強い古径風が画風から、印象画のような色彩豊かな画風へと変化していきました。

1935年(昭和10年)、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授就任、翌年第一回帝国美術院展覧会でが推薦第一位になり、政府買上げとなったことで奥村土牛はその名を全国に知られるようになります。
戦中は長野に疎開。戦後の昭和21年に第2回日展にて審査員、昭和22年に帝国美術院会員に推挙(後に日本美術院に改称)、その後も日展や院展に出品し続け、1959年(昭和34年)に日本美術院理事、この年院展に出品された鳴門は土牛の代表作の一つで、印象画風に描かれた鳴門の大渦が目を惹く大作です。
1962年(昭和37年)、文化功労者表彰、文化勲章を受章。1972年(昭和47年)、第57年に京都醍醐寺の枝垂れ桜を幻想的に描いた醍醐を出品。刷毛で胡粉を何度も塗り重ねし、絶妙な色彩の演出に成功した同作は土牛の最高傑作と評されております。
その後も100歳になるまで絵を描き続け、平成2年第75回院展出品の平成の富士が絶筆となりました。

芸術に完成はあり得ない。夢はどこまで大きく、未完成で終わるかであるが晩年の口ぐせで、日本美術院会員の栄誉を得た後も生活は書生の頃と変わらず質素で絵を描くことに専心しました。そのため自分の絵の評価に興味がなく、死後彼が残した作品の評価額で遺族が相続税での苦労があったといいます。

奥村土牛の作風

奥村土牛は、花鳥や動物・風景・室内風景や相撲力士・舞妓などを、静かで明るく、土牛独自の写生を基礎にした日本画を描きました。
土牛の日本画作品は、百回、二百回と繰り返し顔料をのせ描かれたといい、それでいて執念さは皆無で押しつけがましさもなく、すこしの無理もなく描かれたように感じます。微妙な色彩が画に深みを与えながら、明るい静かな画風が特徴です。土牛の日本画の線はとても心地よく、その線は寡黙でありながらよく吟味された線で、多くを含んでおります。

その土牛の画の基礎に常にあったのが、写生です。
土牛は戦時下でも写生旅に出て自然を写生したといいます。戦前、戦時、戦後と生涯東京に住み制作しましたが、その間作風は常に一定で安定しており、外から受けた影響は師・小林古径から知り、好んで画集を集め眺めたと伝えられているセザンヌといえるでしょうか。セザンヌもまた写生の人であり、土牛が強く魅かれたのもうなずけます。
土牛の線描の写生は、花や葉が外気に晒されて存在する、その継続する瞬間をとらえております。背景は描かれておらずとも、葉をゆらす風までが描かれているかのように、生き生きかつ精確に描かれています。