山本梅逸作品の買取について

藝品館では山本梅逸作品の買取査定を行っております。
山本梅逸の花鳥図や山水図などの日本画・絵画・書画・掛軸屏風等の売却や鑑定をお考えの際は、是非お気軽に当館へご相談ください。責任ある評価・査定を行い、現在の流通価格に沿った適切な買取価格をご提示いたします。

山本梅逸「蘭竹梅図」

山本梅逸「蘭竹梅図」(クリーブランド美術館)

山本梅逸という人物

山本梅逸 (やまもとばいいつ 1783-1856) は名古屋生まれの江戸時代後期に活躍した尾張南画の文人画家です。

1783年、山本梅逸は彫刻工として生計を立てていた父・山本有右衛門のもと尾張国名古屋の現在の中区に生まれました。
梅逸が13歳の頃に父が亡くなり生活は困窮していきましたが、母は梅逸の教育には手を抜かず幼い頃から興味を示した画の勉強や、自身が教えた和歌の時間を削ることはありませんでした。

画の才能が開花した梅逸は、尾張南画を志望していましたが、この時期は尾張南画の重鎮が相次いで世を去ったため、尾張南画の師を持つことができず、そのため地元名古屋の浮世絵師であった山本蘭亭に師事したのち、その勧めで張月樵に師事しました。梅逸の画力は更に伸びていき、地元の豪商・神谷天遊に画の才能を買われました。
梅逸は写生を基にした花鳥画が有名で、それは神谷家にコレクションされていた数多くの中国書画を臨模したことからとも言われています。臨模とは手本となる画を横見ながら模写していく方法で、描く人の技量が試される練習方法です。
神谷家に身を寄せた梅逸は、後に梅逸と共に文人画を発展させていった中林竹洞とはこの時に出会います。梅逸が19歳の頃、神谷天遊が亡くなり梅逸は中林と共に京都へ行きます。しかし文人画の中心であった京都に馴染むことが出来ず、父の危篤がきっかけで一度名古屋へ戻りました。

49歳になった梅逸は再び京都へ行きます。その頃の画は更に繊細さを増し、華美な画調が評価され今度は京都でも名を馳せるようになりました。名古屋で共に修練を積んだ中林は京都に残り梅逸より先に名を馳せており、その中林と人気南画家として名を連ねるようになりました。
画の他にも、楽や俳画、茶道にも精通しており、特に茶道の腕前は優れていたと言われています。

山本梅逸の画風

梅逸の繊細なタッチで描かれる尾張南画は、当時、文人画としては細部まで描きこみすぎと荒々しすぎると評する文人もおり、文人画としては賛否両論を生みました。京都で人気の尾張南画となりましたが、地元名古屋にたびたび戻り、作画による活動を続け、絵画のみならず茶や陶芸なども趣味とし、画法の通じる芸術にしたしんでいたといいます。
当時の文人画にはない、浮世絵の手法を取り入れた色彩豊かで躍動感のある梅逸の筆遣いは、尾張南画の師を持つことができずに、様々な絵画を学んだことで生まれた唯一無二の存在感を放ち、尾張南画のスタイルを今日に伝える新しいものでした。

鮮やかな色使いと大胆な構図をいれた花鳥画や山水画は、現在でも人気が高く、花や鳥が動き出しそうなほど生き生きと描かれており、その人気は日本国内にとどまらず、海外のコレクターの間でも人気の尾張南画家として知られています。