ガレの買取について

ガレ買取は藝品館へおまかせください。

エミール・ガレは新芸術と日本語に訳されるアール・ヌーヴォーの旗手として、19世紀末のフランスを代表する装飾芸術家です。
皆さんはガレというと動植物のデザインを幻想的にガラスで表現した孤高の芸術家というイメージが強いと思います。
実際は家具や陶器の製作も広く行っており、自ら工房を経営するプロデューサー的な立場の人物です。今まで王侯貴族の独占物であった美術品を工芸的な手法で量産を可能にし、庶民の手が届くところまで大衆化した彼の功績は意外と知られていません。

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ガレとは

ガレの本名はシャルル・マルタン・エミール・ガレと言い、1846年フランスのロレーヌ地方のナンシーで生まれました。
彼の生家はガラスや陶器、家具を生産する工房を営んでおり、父は将来を見越しガレにドイツへ留学をさせるなど様々な教育を施しました。特に文学、哲学、植物学に秀でた彼は、後の作品制作のバックボーンになります。
留学から戻ったガレは父の工房を手伝いますが、1870年に勃発した普仏戦争に参加し一時期工房から離れます。戦争から戻った彼は父と共にイギリスの美術館を遊学。
その時見た古代のガラス製品に感銘を受け、1873年に家業のガラス工場をナンシーに集約してガラス製品の製作を積極的に行いはじめます。

1878年、パリ万博に出品したガラス作品や陶器が銀賞を受賞。以後毎年のように展覧会に出品し、賞の常連となります。
ガレの作品の転機は、1885年にナンシー水利林学校に留学していた日本人官僚・高島得三の出会いです。高島は水墨画の名手で日本の文化や芸術に造詣が深く、この地でも数多くの絵を描いていました。
当時ヨーロッパでは日本趣味のジャポニズムが流行しており、日本の美術に興味を抱いていたガレは彼と積極的に交流を結び作品のイマジネーションを膨らませていきました。ガレの作品がどことなく日本的で、動植物の非対称のデザインが浮世絵などの構図に似ているのは、高島との交流が大きく影響しています。

1889年、パリ万博のガラス部門でグランプリ、陶磁器部門で金賞、家具部門で銀賞という栄誉に輝き、一躍彼の名を国際的に高めました。
ガラスの装飾技法のマルケトリ(あらかじめ作っておいたガラスの部材を本体のガラスに象嵌する手法)やパチネ(ガラスの表面をサビ色に曇らせる技法)は特許を取得、さらに酸化腐食彫刻など様々な技法に磨きをかけ、1900年のパリ万博で再びグランプリを受賞。名実ともにガラス芸術家の第一人者となります。

1901年には同郷のガラス工芸家のドーム兄弟等と共にナンシー派と呼ばれる美術集団を設立し、会長に就任します。
しかし間もなく白血病に侵され、1904年に58歳で逝去。
その後もガレの工房は友人で画家のヴィクトール・プルーヴェが運営し、第一次世界大戦での中断を経て娘婿のポール・ペルドリーゼによって続けられました。しかし1931年に工場は解散、ここでガレの作品制作は終了します。

ガレの曲線を駆使した非対称のデザイン、そして動植物を主題にした作品製作は、シンメトリーを重視しキリスト教やギリシャ神話を題材にしていた当時の欧米美術界に風穴を開けました。
また産業化革命で資産家などの新興勢力が台頭し大衆文化が花開いた19世紀末のヨーロッパでは、ガレの作品はまさにエポックメーキングな存在だったのです。ガレの作品は前から多くの贋作が作られていたことからも、その影響の強さが伺えます。