翁同和作品の買取について

藝品館では翁同和作品の買取査定を行っております。
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翁同和の書と人物

翁同和 (翁同龢/おうどうわ 1830-1904) は清朝末期、江蘇省常熟出身の著名な政治家で書家です。
字は叔平、号は松禅、瓶生、瓶廬居士、天放閑人、晩年に使った号には瓶庵居士など。
幼い頃には楷書の四大家の一人である欧陽詢や褚遂良を手本とし、後には明末の董其昌や北宋の米芾に学びました。中年の頃は錢灃や唐代の顔真卿に範を摂るようになりましが、顔真卿の書体に縛られることはなく、その書体は広く伸びやかで、非常に力強い筆致です。さらに翁同和は蔵書家としても知られます。著書に翁文恭公日記瓶廬詩文稿などがあります。

4歳の時に祖母に連れられ、母の実家の江蘇省常熟に移り、少年期をこの地で過ごしました。幼少から学を好み、1845年に科挙の試験を受ける資格試験の院試で秀才となります。1852年に郷試(科挙の地方試験)に合格。1856年状元(皇帝の前で行われる科挙の殿試で第一位になること)となり、同治帝・光緒帝の両皇帝の教師となりました。翁同龢自身は西洋の学問の重要性と、緩やかな改革を目指していました。また人材を抜擢する才能に長けていたといいます。
1879年工部尚書、1882年軍機大臣、1886年に戸部、1895年総理各国事務衛門大臣など重職を歴任。しかし同じく重臣の曽国藩・李鴻章等によって翁同龢の兄が弾劾されたため彼らとは仲が悪く、翁同龢は皇帝側の「浙江派」、李鴻章は西太后側の「両湖派」と分かれ政争が絶えませんでした。
世間ではこのふたりの関係を「宰相合肥(李鴻章の官位と出身地)で天下瘦せ、司農常熟(翁同龢の官位と出身地)で世間が荒れる」と揶揄しました。1894年の日清戦争では主戦派で、講和条約でも領地割譲に最後まで強く反対しました。
1898年、光緒帝が行政の改革を志すと、変法運動の指導者・康有為を推挙。しかし西太后の策略で反対にあい、さらに政変で西太后が復権してしまい、解任帰郷させられてしまいました。1904年、自宅にて逝去。享年75才。