永楽保全の茶道具買取について

藝品館では永楽保全(永樂保全)作品の茶道具の買取査定を行っております。
永楽保全の茶碗・香合・水指・茶器等、京焼・茶道具の売却や鑑定をお考えの際は、是非お気軽に当館へご相談ください。
経験豊富なスタッフや茶道具の専門家が責任ある評価・査定を行い、現在の流通価格に沿った適切な買取価格をご提示いたします。

他の永楽善五郎作品、また作家作品の茶道具の買取も行っております。

永楽保全とは

永楽保全(えいらくほぜん)寛政7年-嘉永7年(1795-1854)は十一代永楽善五郎家・江戸後期の京焼の陶工です。

永楽家は、千家十職の一家として茶陶を制作していますが、その祖先は室町時代に奈良で土風炉師として名をあらわし、江戸時代に京都に移り代々西村善五郎を名のってきました。
十代了全の時代に土風炉に加えて陶磁器の制作を始め、さらに保全が養子として永楽家に入ったことで、同じく千家十職の一家・楽家が手掛けない分野の様々な焼物を制作することになりました。
また、了全と保全の頃に永楽家と三井家の交流が始まり、三井家はその後も永楽家の最大の後援者となります。千家や三井家などからの引き立ての中で名作の焼物を目にする機会に恵まれ、了全と保全は共に瀬戸写や仁清写、中国や朝鮮さらには東南アジアの陶磁器の写しにも成功し、多彩な作品を多く残しました。

永楽保全の生い立ち

十一代保全は、十代了全の養子で、寛政7年(1795)に京都の織屋・沢井家(幼名千太郎)に生まれたと伝えられています。
幼くして東洞院二条の百足屋木村小兵衛という陶器の釉薬や絵具を扱っていた絵具屋に奉公し、のち大徳寺黄梅院の大綱宗彦のもとに喝食として入り、文化4年(1807)十二、三歳の頃、大綱和尚と木村小兵衛の仲介により了全の養子となりました。
生来非常に研究熱心で、孝心も深いものがあったそうです。
茶の湯は文化8年(1811)に久田家七代宗也のもとに入門し、陶技を粟田口の岩倉山家・宝山家に学び、土器師山梅のもとにも通っています。書は松波流を習い、画は狩野永岳に。歌書は香川景恒、蘭学を新宮涼庭・幡埼鼎にそれぞれ学んだと伝えられています。

文化14年(1817)に保全は了全の隠居にともなって22歳で永楽善五郎を襲名します。
この年から保全の善五郎時代が始まりますが、翌文政元年から10年程の間は、了全と共に釉薬の研究や登窯の焼成など様々な研究を行いました。文政7年ごろにはその成果が青磁写や交趾写として結実します。

永楽保全の作風

保全の作品は、箱書の名前と制作時期から、善五郎時代(文化14年-天保14年)、善一郎時代(天保14年‐弘化4年)、保全時代(弘化4年頃-嘉永7年)の三期に分けて語られます。

「善五郎」時代

この時代の保全の作品には、「永楽」もしくは「河濱支流かひんしりゅう」の印が捺されています。
この印章は、紀州藩十代藩主徳川治宝とくがわはるとみが和歌山西郊造営した別邸西浜御殿の偕楽園で、文政10年(1827)に表千家十代吸江斎きゅうこうさい、樂家十代旦入たんにゅう仁阿弥道八にんあみどうはち、保全らを招き御庭焼(偕楽園焼)を行った際に、保全が治宝から拝領したものです。保全は、この紀州徳川家のお墨付きの印を自身の拝領とはせずに、養父了全とともに拝領したと伝えられています。

善五郎時代の作品は、交趾写、安南写、御本写、金襴手、染付というように、すでに様々な写し物があり完成度も高いです。
保全は粟田口などの本窯に出向いて陶技を磨いたといわれ、磁器の技術も独自に習得していたといわれています。当時「円窯まるがま」と呼ばれる肥前系の小形登窯が京都にも導入され磁器が焼かれ始めますが、保全もまたこの円窯を研究していたのではないかと考えられています。。

また保全は、善五郎を襲名した同じ年の文化14年(1817に)最初の妻を迎え一女をもうけたものの、妻を早くに亡くしています。その後は百足屋木村氏の娘と再婚し、文政6年(1823)には後の十二代善五郎・永楽和全をもうけていますが、この妻も2年後に亡くしています。
その後保全は正妻を持ちませんでしたが、祇園の茶屋井筒の娘おつゆを内縁の妻としました。
たばこ入の緒締やかんざしの玉として当時流行した保全の永楽玉は、井筒の女将が歌舞伎役者を通じて花柳界に流行らせるきっかけをつくったそうです。また、文政10年(1827)には越前守藤原光寧から「保全」の名を受けています。
天保12年(1841)年には養父・了全を亡くしています。

「善一郎」時代

善一郎時代は、永楽保全の燗熟期といわれ、天保14(1843)年以降、保全は善一郎を名乗りました。
この頃、老中水野忠邦の天保の改革(1841−45)による奢侈禁止令で金襴手などの奢侈品が禁じられ、保全の作陶にも規制がかかり隠居することを余儀なくされます。その後水野忠邦の失脚により禁令が解消したため、永楽保全はさらに陶技の冴える作品を制作しました。

この頃の作品には「陶鈞」印が捺され、共箱には「陶鈞軒保全」と署名がされています。「陶鈞軒とうきんけん」は、弘化3(1846)年近衛家に伝わる「揚名炉」を写して鷹司公より賜った号です。さらに、有栖川宮幟仁ありすがわのみやたかひと親王からは「以陶世鳴」の染筆を与えられました。

「保全」時代

嘉永元年(1848)、善一郎は名義を保全やすたけに改め、箱書に「保全」と記す保全時代の始まりとなります。

保全は、弘化4年(1847)に親友である塗師佐野長寛の次男宗三郎を養子として迎え、和全の義弟とします。
保全は、和全を長とする善五郎家と、宗三郎を長とする善一郎家をたてようとしました。しかし、和全はこの意に添わなかったため、親子仲に溝ができてしまいます。

嘉永元年頃、永楽保全は京都を離れ、琵琶湖畔の膳所に窯を築き河濱焼かひんやきを焼いたとされています。
これが、湖南焼の始まりでした。この時の作品には行書体の「河濱」印が捺されています。
嘉永3年(1850)10月、その頃新しい陶技の開発にかかった借財が重なり、心機一転を図り保全は江戸へ出向きます。しかし、江戸で志かなわず、翌嘉永4年には大津に戻り、ここで再び窯を築いて湖南焼を始めます。
嘉永5年には摂津高槻城主の十一代の永井直輝に招かれて高槻に窯を築き高槻焼を焼いています。
高槻焼は湖南焼との連携で焼かれたと考えられています。ここで、数か月のうちに祥瑞写し、染付写し、呉須赤絵写しなどの作品を制作したと伝えられています。高槻焼の作品には、染付銘で製高槻真上丸爐とあります。「高槻真上」は窯のあった地名、高槻市真上町を示し、「丸爐」は、肥前系の小形の登窯の円窯を意味しています。最晩年の嘉永7年(1854)には、三井寺円満院門跡の御濱御殿内で三井御濱焼を焼いています。この作品には三井寺の山号である「長等山ながらやま」銘が捺されます。

晩年の永楽保全

永楽保全の晩年は、和全との不仲が説かれ、京都を逃れて大津に住んだとされますが、保全の動向と作品からは前向きで精力的に動いた晩年であったといわれています。
「陶鈞軒」号を拝領した鷹司家や、「以陶世鳴」の書を拝領した有栖川宮家、三井寺円満院宮御濱御殿での築窯、摂津高槻永井候に招かれての高槻焼など、それまでとは違う貴顕との交流があります。湖南焼も、高麗写や仁清写など多彩ではあるが、特に祥瑞写のような染付磁器が多いです。
和全との不和はあったようですが、千家の土風炉師としての役割は和全に譲り、保全自身は貴顕との交わりを通じて文人志向が強くなったようです。
これに拍車とかけたのは、京都のしがらみから少し距離を置いて作陶したいという気持ちであったかもしれません。

千家の陶家(焼物師)としての位置を確立した保全は、常に新しい知識を求め、探究心旺盛で非常な努力家であったと言われています。
保全は、貴顕の好みを敏感に感じ取り、その注文に十二分に応えられる卓越した技術を持っていました。青木木米あおきもくべい仁阿弥道八にんあみどうはちとともに、幕末京焼の三代名工と謳われ、当代随一の写しの名工であっただけではなく、本歌の良さを写しながらも一貫して京焼としての雅と綺麗さを漂わせるところに保全の独創性があったといわれています。
しかし、嘉永7年(1854)9月、最後まで精力的に動いた保全ではありましたが、湖南にて60歳の生涯を閉じました。