七宝製品の買取について

七宝製品の買取は藝品館へおまかせください。

七宝焼は海外ではエナメルと呼ばれる美術工芸品です。七宝焼は金や銀、銅などで作った容器の上にガラスの釉薬を施して焼成することで、器に華やかで色彩を作り上げます。
蔵整理やご実家の整理などで出てきました七宝工芸品の買取や鑑定査定は当館にご気軽にご相談ください。

七宝製品の歴史

七宝製品は古くは古代エジプトでファラオのリングや胸飾りなどの宝飾品の飾りとして使われたのが始まりと言われています。
技法として確立したのは古代ビザンチン帝国(東ローマ)で、薄いリボン状の板を容器にハンダ付けし、その間にガラス釉を施すという現在と同じ技法で装飾品が作られました。その後、ヨーロッパにはカロリング朝の頃に製法が伝来、キリスト協会などの祭壇の装飾として使われます。

一方、このエナメルの技法はシルクロードを通じて13~14世紀ごろに中国にも伝わりました。
中国ではこのエナメル技法を琺瑯といい、明代の景泰年間(1450~1457)に日本では泥七宝と呼ばれる半透明のガラス釉を青銅器に施した景泰藍が盛んに作られました。中国では七宝焼というとこの景泰藍を指します。室町時代から桃山時代に掛けて中国経由でこの景泰藍が流入しています。

日本で本格的に七宝焼が製作されたのが確認できる記録は、豊臣秀吉によって伊予松山から京都に招聘されたた金工家・嘉長によるものです。
彼は小堀遠州の勝色縅鎧金具や、桂離宮、大徳寺などの釘隠を中国の泥七宝で製作しました。また同時期に京七宝の礎を築いたとされる平田道仁がおり、泥七宝と異なった透明感のあるガラス釉を用いた刀の鍔や釘隠を製作し、慶長16年には幕府のお抱え七宝師になっています。
このように日本で七宝焼が本格的に作られるようになると、京都以外にも江戸、加賀、近江などでも七宝が作られます。当時は七宝焼とは呼ばれず「ビードロ座」「七宝流し」「七宝瑠璃」などと言われていました。

この様に江戸時代を通じて七宝は脈々と作られていましたが、メインは七宝焼で刀装具や調度品の飾り金具で、あまり一般的ではありませんでした。
日本で七宝焼が大きく発展するのは明治維新以降です。

明治維新より少し前、尾張藩士の梶常吉が日蘭貿易の輸入品の中に七宝の皿を見つけ、それを買い上げて自ら製法を研究し有線七宝の壺や皿を特徴とする「七宝焼」を完成させました。
明治時代になると政府は外貨獲得のため七宝焼きも輸出品の対象としました。政府はドイツ人科学者のゴットフリート・ワグネルを招聘して透明釉を開発。これをもとに尾張や京都、東京の七宝師に技術指導し、世界に通じる七宝焼の開発を行いました。

京都の七宝師・並河靖之は七宝に使う金属線を真鍮から金線や銀線に変えることでより繊細な表現ができることに着目し独自の有線七宝を創出。
1889年、1900年のパリ万博で金賞を受賞します。一方同時代に東京の七宝師に濤川惣助がいました。彼はガラス釉を焼き付けする前に仕切りの金属線を外して焼成する無線七宝を開発。これにより色彩にグラデーションが生まれより写実的な表現が可能になります。彼はこの技法で花瓶などに日本画的な表現を施し万博に出品。
1883年アムステルダム万博、1885年ロンドン万博で金牌、1889年パリ万博で名誉大賞を受賞しました。漢字は違えど苗字の読みが同じ並河靖之と濤川惣助を世間では「二人のナミカワ」と呼び称賛しまいた。後に二人とも七宝家として帝室技芸員に任命されています。

彼らに刺激され、明治中期から昭和初期にかけて安藤十兵衛や稲葉七穂、川出柴太郎など優秀な七宝師を輩出、欧米のジャポニズムのブームに乗り明治政府の重要な外貨獲得手段の一つとなしました。
しかし第二次世界大戦の勃発で七宝の需要は激減、輸出産業としての七宝は終焉を迎えます。

日本の七宝焼は輸出品として製作されていたため、明治から昭和初期に作られた七宝の秀作は日本にほとんど残っていません。
現在日本での七宝焼きは陶磁器ほどの知名度や評価はありませんが、この時期に作られた超絶技の日本の七宝は海外で高い評価を受け、多くのコレクターが存在しています。

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