鉄工芸の買取について
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鉄工芸とは
日本で鉄の加工が始まったのは、考古学的な検証から弥生時代と言われています。鉄の加工技術は稲作と共に大陸から伝わり、砂鉄が豊富な山陰地方を中心にたたら製鉄で純度の高い鉄を作り、専ら農機具や武器の生産が行われます。
日本の鉄の工芸品と言えば、まず思い浮かべるのは日本刀でしょう。
16世紀に永代たたら技法が確立すると、刀の材料として良質な玉鋼が得られるようになります。また戦国時代で刀の需要が急増したため、その技術は飛躍的に向上しました。刀を作ることを「刀を鍛える」と言いますが、これは鉄を叩くことで形を作り、尚且つ固くする金属加工の「鍛金」という技術が使われています。
さらに刀から身を守るため、鍛金で鉄を叩き板状にして紐で結ぶ鎧も作られます。
刀が武士のステータスとなると、鉄製の鍔などの刀の装身具に鏨で溝を作り、そこに金や銀を嵌め込み装飾をする「象嵌」の技術も発達します。
一方で、武士の間で茶の湯の習慣が広がると、釜師によって湯を焚くために釜が作られます。釜もまた鉄製で、砂型を作り溶けた鉄を流し込んで製作します。これを「鋳造」と言います。
このように鉄の加工には「鍛金」「鋳造」「象嵌」という3種類の技法があり、中世日本は世界的に見ても鉄の加工技術が高度に発達していました。この傾向は江戸時代を通じても変わりません。人々は鉄を主に武器や農具、茶道具などの実用品を作るためにその技術を発展させます。
しかし、幕末に西洋式の大砲や鉄砲を駆使した戦争に、日本の刀や鎧は全く役に立たなくなります。また明治政府の廃刀令で刀鍛冶や甲冑師も職を失い、多くが職業替えを余儀なくされます。
彼らは金属加工技術を活かし、置物などの調度品を作るようなります。そして美術銅器で全国的に知名度がある高岡銅器などの産業に参加し、欧米向けの調度品を作り始めました。明治政府も殖産興業政策で万博出品の後押しをするなど積極的に彼らを支援し、その高い技術が認められ欧米からの注文が殺到します。
その中で世界的に高い評価を受けたのが、明治から大正にかけて活躍した鍛金家・山田宗美です。
山田宗美は明治4年(1871)、九谷焼で有名な大聖寺藩御用甲冑師の家系の山田宗光の息子として生まれます。その5年後、廃刀令で父は職を失い象嵌技法を活かし置物制作を始めます。宗美も父から鍛金や象嵌の手ほどきを受けます。
そのころ仲間内で龍や海老などの動物をモチーフに手足が動く「自在置物」を作る者が現れます。自在置物は江戸時代から作られ、鉄の板を鍛金で伸ばしたり曲げたりして部品を作り、それをつなぎ合わせて完成させます。これが欧米で非常に受け、主要な輸出品となりなした。
ただし鉄は柔らかい金や銀、銅とは違い硬いので、叩いてもそうそう形が変わるわけではありません。また金属は叩くほど硬くなる性質があり、鉄で自在置物を作る時は僅かに曲がった部材同士をつなげるしかありません。
宗美は20歳の時に鉄も熱すると柔らかくなるので熱いうちに金槌で打ち出し成型するというアイデアを思いつきます。
そして5年の歳月を費やし、1枚の鉄の板から動物や花瓶などを鍛金で作り出す「鉄打出技法」完成させます。明治29年(1896)、日本美術展覧会初出品で三等賞銅牌を獲得。鋳造や溶接など一切使わずに硬い鉄で複雑な造形を作り上げた宗美の技に人々は驚嘆します。
その後明治33年(1900)のパリ万博出品、明治39年(1906)のセントルイス万博で一等など受賞歴を重ね、ついに明治42年(1909)の日英博覧会出品の『狛犬一対』が大賞受賞。大正5年(1913)には、美術家として国内最高の栄誉職である帝室技芸員に内定します。
しかしその発表を待たず大正8年(1916)年に44歳の若さでこの世を去ります。
宗美創案の「鉄打出技法」がどのような作業工程を経て造形を作るのかは、詳しい資料が現存せず謎のままです。
しかしその作業が如何に大変だったかは、明治36年(1903)の美術画報に掲載された明治32年度美術協会展金賞受賞『雌雄鶏置物』に対する宗美の回顧録から伺えます。
その記事によると「試作や研究を重ねること十数回でようやく接続なしで全体を鎚で叩き出せたので、重量を測ったら雄雌で330匁(1237.5g)でした。そこで鎚起で形を整え、ようやく完成させることができました」。
現在、宗美の超絶技を駆使した作品は彼の生まれ故郷の加賀市美術館や石川県立美術館などで見ることができます。